有岡城跡史跡公園

有岡城跡史跡公園というのが、JR伊丹駅の目の前にあるんです。

その歴史や概要についてここでは説明していきたいと思います。

伊丹氏が、南北朝時代から戦国時代にかけて「伊丹城」を築いていたところが、今の有岡城跡と言われています。

そして織田信長の武将であった荒木村重が、天正2年(1574年)に伊丹氏にかわって伊丹城に入城したと伝えられています。

その時に城の名称を「有岡城」と変えて、大規模な改造が行われていたようです。

有岡城は、通常のお城とは少し違っていて、城の「主郭部」、家臣たちの住む「侍町」、一般町人が住む「町屋地区」という3か所に分かれているのです。

お城部分だけではなく、その「侍町」「町屋地区」も含めて、全てを含んで城としての価値が認められたので、昭和54年に「国の史跡」に指定されたのです。

そして天正6年、織田信長の武将であった村重が織田信長に反旗をひるがえすことになるのです。

信長の怒りを買った村重は、有岡城を完全に包囲され、大規模な攻撃を受ける事になります。それでもしばらくは持ちこたえたのですが、10ヵ月におよぶ篭城の末に村重は尼崎城に逃れて、主を失った有岡城は焼き払われて陥落することになったのです。

そして2年後の天正8年、信長の家臣である池田信輝の嫡子之助が入城するのですが、その2年後の天正11年には美濃へすぐに移ってしまうのです。

伊丹は秀吉の直轄領となったようなのですが、それから大名は置かれずに、この立派な有岡城が放置され続けるということになったのです。

有岡城はそのような状況になったわけですが、焼け残った町屋地区を中心として伊丹の町は「伊丹郷町」として酒造りで発展していきます。

そのような歴史を辿ってきた有岡城なんですが、昭和50年に国鉄伊丹駅前の整備事業が始めると同時に発掘調査が始まりました。

その調査の結果、北部・金光教跡から「本丸跡の石垣」「建物跡」、駅西側・荒村寺跡から」庭園遺構」などが発見されるわけです。

当初の想像以上に遺構が状態よく残されていることが分かりました。

その結果を受けて、駅前再開発計画が再検討されることになったのです。

有岡城跡、伊丹郷町遺跡の発掘調査はそれからも継続して続けられ、発掘次数は今では300次を超えているのです。

そいsて有岡城跡主郭部の史跡公園整備は、昭和58年から始められることになり、平成5年に完成しました。

「土塁の石垣」「建物」「井戸」「堀跡」などが復元されることになって、「市民の歴史学習」「憩いの広場」として愛される場所になっているわけです。

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